2025 12/20 09:51
なんで、ヴェルディ応援してんだっけ
東京ヴェルディアドベントカレンダーにて、12/19の記事を書かせて頂くtogoと申します。
まず、こういった楽しい企画を立ててくれた緑がちるさんの、行動力とヴェルディへの愛に、敬意と感謝を。ありがとうございます。
「楽しそう!」と思って何も考えずに、この企画に参加してしまった約1ヶ月前の自分を若干恨みながらも、この企画がなければ恐らく放置したまま2025年を終えていただろうこのブログに、新しい記事を半強制的に(自分で参加表明したくせに)書く機会を与えてくれたことを前向きに捉え、眠い目をこすりながらキーボードを叩いている12/20の夜中1時。(もう締切過ぎてるやんけ!)
テーマはヴェルディのこと……。うん。広すぎる。笑
応援のこと、J2の時のこと、好きな選手のこと、思い出の試合、楽しかったこと(1割)、キツかったこと(9割)、はたまた問題提起は重くなっちゃうしな……とネタを探っていたら、堂々巡りになってしまい、最終的に「自分、なんでヴェルディ応援してんだっけ」というところに行き着いた。なんで、ヴェルディ応援してんだっけ。
ここで、冒頭の写真である。
ヴェルディサポーターの方ならピンとくる景色。正確な年はわからないが、恐らく1992年〜93年くらいに撮られた、私と父の写真。撮影場所は、そう、ヴェルディグラウンドの前の坂だ。
坂に沿った「菅さくら公園」と「フルーツパーク」で遊んだ記憶。そしてよみうりランドの駐車場の方から、プリメーラグラウンドで走る選手達を眺めていた記憶。それが、自分の脳味噌の中で、ハッキリと映像で浮かび上がる、ヴェルディとの接点の一番古い記憶だ。
日野で産まれて、川崎で育つ
私は、1987年に東京都日野市の高幡不動にある産婦人科で産まれた。今はカラオケボックスになっている場所だ。(昔付き合っていた彼女と、自分が産まれた場所にあるカラオケボックスで遊んだ時はなんか変な感じがした)
母方の祖父の実家が日野にあり、里帰り出産で日野で産まれたのだが、自分の両親は川崎の多摩区に居を構えていたので「出身地」を問われると、日野か川崎か曖昧なところなのだが、今はホームタウン出身ということに誇りを感じたいので「日野市産まれ」を主張している。
では、なぜ当時新婚の両親は川崎に住んでいたかというと、どうやら我孫子だかの団地の抽選に落ちた末に、千代田線沿いに勤めていた父の通勤の便を考慮し、直通で行ける小田急線沿いの川崎市多摩区を選んだようだ。それで必然的に、幼少期の私は、休日は近所のよみうりランド周辺に出かけて遊ぶ機会が多かった、というわけだ。
つまり、両親のくじ運が良く、我孫子だかの団地の抽選に当選していたら……私とヴェルディの出会いの機会は失われていたし、柏レイソルが好きになって、みゃ長が応援の師になっていたかもしれない。両親のくじ運という偶然と、川崎に住んでいたことによる必然が組み合わさり、私はヴェルディと接点を持つようになった。
そして、93年。私が小学校に上がった年にJリーグが開幕し、ヴェルディのお膝元・多摩区のサッカー少年団に入団した私には、もはやヴェルディ川崎を応援する選択肢しかなかったのだ。
川崎球場と、とんねるず
次に、一番古い「選手との接点」についての記憶。それは、「川崎球場」でのビスマルクとのハイタッチの記憶だ。ヴェルディの話しなのに、なんで野球場が出てくるのかというと……。
開幕当初は、いくら地元とはいえヴェルディの試合を観に行くという事はとてつもなくハードルが高く、我々一介のサッカー少年にとってヴェルディとの接点といえば、少年団が招かれるイベントくらいしかなかった。
その一環で、川崎球場で行われた、とんねるずの生ダラのサッカー企画(ノリさんの芸能人チームとヴェルディとのサッカー対決だったはず)の観覧として少年団が招かれた、というわけだ。その日は収録の観覧だけでなく、川崎球場のフィールドに降りて選手とリフティング対決やミニサッカーが行われ、そこで初めて、ヴェルディの選手を間近で見ることとなる。ビスマルク、そして阿部良則とのハイタッチ。それが、一番古い選手との接点の記憶だ。
当時のヴェルディといえば、巨人的な全国区の人気を目指したスター軍団で、ホームタウン軽視という固定観念が付きまとうけど、実際はしっかりと地元のサッカー少年に対して接点を設ける活動をしていたように思う。
更には、等々力競技場にサッカー少年が集められ、ヴェルディの紅白戦を観戦した記憶もある。紅白戦ですら、当時のサッカー少年達にとってはヴェルディと関わる貴重な機会だったのだ。(多分菅原は出てた)
「俺が応援しなきゃヴェルディヤバい」
学年を重ねるに連れヴェルディの成績は落ち、そして私にも転機が訪れる。祖母が亡くなり単身となった祖父と暮らすために、96年、小学校4年生の時に日野に舞い戻ることとなる。当然、よみうりランドや等々力競技場との距離は離れ、さらにヴェルディも凋落の一途を辿りつつあったので、思い入れが一時期停滞する。あれだけ熱狂したフランスW杯予選も、カズと北澤の落選によって本大会にはそれほど熱が入らなかったし、血迷って中学校では野球部に入ったり(結局厳しくて1学期で辞めた)。
99年、久しぶりに等々力競技場に観戦に行った際、閑古鳥が最盛期を迎えていたヴェルディの惨状を目の当たりにする。応援が1階と2階で別々にやっているし、そもそもどちらも人が数えるほどしかいない。それでも、カズもラモスも武田も柱谷も去った中、李国秀総監督の下、北澤中心に躍動する新生ヴェルディを見て、どこか放っておけない気持ちになる。山田卓也、米山篤志、林健太郎、小林慶行。今まで全く知らなかった選手達が緑を纏い、上位争いをしていた。お気に入りは浦和戦(等々力なのに8割赤かった)でロングシュートをぶち込んだジェフェルソンだった。
このあたりで明確に、「華々しくて憧れだったヴェルディ」ではなく、「俺が応援しなきゃヴェルディヤバい」という応援思考に完全に切り替わる。
そして、その思考を決定づけ、その後約25年の自分の人生を縛り付ける事になる、ある光景を目の当たりにする。
自分の脳裏にいつまでも残り続ける、99年9月18日、横浜国際競技場(現日産)での記憶……。
つづく



