平等な「世界」

人は二郎のもとに平等である。
一度列に並んでしまえば、「ラーメンを欲する者」として、年齢も職業も関係なく平等になる。年収が高くても、モテても。ニートでも、腹が出てても、髪が薄くても。童貞でもヤリチンでも。
総帥が興し、長い年月数多のジロリアンが作り上げた一つの世界観のもとに、平等なのだ。
慣れない者は、自ら学び慣れるほかない。法を犯すものには、容赦ない制裁(冷めた接客・視線)が注がれる。肌に合わない者は、去るのみ。極めて全体主義的で、危険な空間ではあるが、信念(ラーメンを愛する心)を持った者に対しては、格差は無い。
そんな平等な「世界」を求めて、人は二郎に集うのかもしれない。

人はまた、銭湯のもとにも平等である。
背中に絵が書いてあっても、何日間か風呂に入ってないであろうテカテカな髪をしていても、イチモツが大きくても極小でも関係ない。
それもまた、長い年月人々が作り上げた文化のうえに、平等なのだ。
嫌なことがあった日も、疲れてどうしようもない日も、冴えない日でも、充実した日でも。風呂は平等に僕らを受け止めてくれる。

スーパー銭湯や健康ランドと勘違いしてはしゃぎ騒ぐ者は、やがて常連客に密告され、店主から注意を受けるだろう。

門はいつでも開かれている。
だが、ルールが守れないなら、来なくてもいい。
そういう「世界」は、一朝一夕には出来上がらないだろう。何でも受け入れていたら、そこに平等は生まれない。

外から見れば排他的で妄信的な「世界」は、実は中身は平等で、その小さな平等な世界の連続が人々の心を満たし、日常のバランスを保っているのかもしれない。

人は、インターネットのもとには平等ではないのである。(100年後は成熟されているといいな)

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